アルタイの風は、常に何かを運び去ろうとする。
少女・アタイは、父が張り巡らせた天幕の影から、果てしなく広がる草原を眺めていた。彼女の髪は羊毛のように黒く、目は凍てつく夜の星のように鋭い。
「アタイ、何をぼんやりしている」
背後で父の声がした。アタイは振り返らず、ただ遠くの地平線を指さした。
「父上、太陽が沈む場所のさらに先には、何があるの?」
父は太い指で無精髭をこすり、笑った。
「海だ。荒れ狂う青い海が、世界の終わりまで続いている。そして、その海に浮かぶ小さな島々がある」
アタイはその言葉を、心の中に種のように植え付けた。
ある夜、彼女は奇妙な夢を見た。
夢の中の彼女は、草原を駆ける馬の背にはいなかった。彼女は、深い緑の木々に囲まれた、見たこともない静かな場所を歩いていた。
そこでは、空から柔らかい白い花びらが舞い落ちていた。草原では見たことのない、繊細で、しかし力強い命の息吹を感じさせる花。
水面には、まるで別の世界の月が映り込み、遠くで鐘の音が響いている。どこか遠い海を越えた先にあるという、言葉も交わしたことのない未知の場所。
「……日ノ本(ひのもと)」
夢の中で誰かがそう呼んだ。その言葉は、アタイの魂に深く刻まれた。
目覚めたアタイの頬には、一筋の冷たい雫が伝っていた。天幕の外では、相変わらず突厥の馬たちが嘶き、男たちが武器を研ぐ音が聞こえる。
彼女の運命は、この広大な草原で、いつか誰かとの婚姻を結び、一生をここで終えることなのだろう。それは部族の掟であり、逃れようのない現実だ。
しかし、アタイは立ち上がると、革袋にわずかな水を入れ、愛馬の鬣(たてがみ)を優しく撫でた。
海を見に行こう、と彼女は思った。
この草原の果てにあるという、荒れ狂う海。
そして、その先にあるはずの、桜が舞い、鐘の音が響く遠い島影。
たとえこの身が草原の土に還ることになろうとも、夢に見たその場所の風を、一度でいいからその肌で感じてみたい。
アタイは馬に跨ると、太陽の沈む方角へ向けて手綱を引いた。
アルタイの風が、彼女の背中を強く押した。
それは、遥か東の島国から吹き寄せた、名もなき風の呼び声のように思えた。
少女の旅路は、まだ始まったばかりである。